反レイシズム関連を中心に適宜更新します。


by ryangyongsong

長谷川豊の立候補じたいが許されない理由②――日本と米国の社会規範の違いから

透析患者への差別煽動を行った長谷川豊が日本維新の会から立候補することについて、2回続けて記事を書いた。

http://yongsong.exblog.jp/26612395/

http://yongsong.exblog.jp/26613657/

非常に深刻なので、こまめに論点を挙げていきたい。

前回は、次の常見氏の記事を批判したので読んでいただきたい。


あれだけ炎上してしまった彼だが、立候補する権利はある。日本維新の会が誰を擁立しようと勝手だ。

私は民衆の意志を信じて、「正気の沙汰ではない」という言葉を保存しておくことにする。



このコメントには、常見氏のみならず、差別・レイシズム・極右への日本型リベラルの対応のまずさが、集約的に現われている。それだけに批判する価値がある。

そのためにも、差別への対応の、日米の違いをみることは重要である。今回はその例を挙げようと思う(長谷川本人の対応については時間がないので他で扱う)。

私は前回の終わりに次のように書いた。

私と、常見氏の文章のあいだには、ある見過ごせない断絶が露呈しているからだ。
それは、欧米型人権規範(反レイシズム規範)と、戦後日本型社会規範との、断絶なのである。
両者は、水と油である。
前者の欧米型人権規範は絶対的正義、後者の戦後日本型社会規範は(人権規範なき)日本型の相互理解・コミュニケーション・「和」である。


今回はこの規範の違いについて、差別が起きた時に行うべき対処・謝罪例をもとにみていこう。


4.


長谷川が去年、番組を降板した件についての、テレビ大阪社長のコメントである。

事態を重く見た同局は同29日、「9月19日のブログでいき過ぎた内容があり、多くの人に著しい不快感を与えた。その後、タイトルを修正したとはいえ、何よりも言葉を大切にしなければならない報道番組のキャスターとして、不適切な発信と言わざるを得ないと判断した」として、翌30日放送からの番組降板を発表した。
下線部に注意してほしい。

長谷川がなぜ番組を降板したのか。社長のコメントではまったく不明である。

1.「いき過ぎた内容」とは何か。不明である。何が、どう行き過ぎたか。
2.「多くの人に著しい不快感を与えた」。これも不明。
3.「キャスターとして」「不適切な発言」。これも不明。

長谷川豊がなぜジャーナリスト失格なのか。
テレビ局としては、次の事ができたはずであったし、すべきであったはずだ。

①事件の真相究明(ブログ記事の何が間違っているか。なぜそういう記事を書いたか。)
②どういう点で問題なのか(透析患者への人権侵害・差別煽動、福祉・医療制度利用者へのバッシングの煽動。その社会的効果の検証。)
③処分(降板させるだけでなく、どういう理由で降板させるのか。その規準とは何か。以上の公開)
④局としての再発防止策(アナウンサーへの研修、局としてのルール制定、透析患者の置かれた状況を検証する番組を放送するなど)

管見のかぎり、それらは、まったくない。
だから、単に降板させたところで、じつは何の解決にもなっていない。

差別・人権侵害が起きたとき、重要なのは「誰かに責任を取らせて終わり」ということにしないことだ。
そうではなく、社会全体の反差別・反人権侵害ルールや規範の制定・更新というところにつながらなければ意味がない

日本社会では差別・人権侵害がおきたとき、話し合い重視でルール制定を嫌う、戦後日本型の社会規範に、無意識に沿った形でコトが処理されてしまう。だからいつまでたっても、差別・人権侵害は不祥事としてのみ処理されてしまうわけだ。

欧米型反レイシズム規範がある社会では、謝罪とはどういう形で行われるか。


上の記事は、2015年3月に米国のオクラホマ大学で起きた学生による差別事件に関する記事(日本語の解説は下記)。黒人を差別する歌を歌った学生が、その映像がネットで公開され、発覚し、学内で除籍処分となった事件だ。

ここで注視してほしいのは、元学生(除籍後)が公開で事件後に謝罪していることだ。その発言をみると抽象的に「不適切だ」とか「傷つけた」とかではなく、はっきりと差別したことを悔い謝罪していることがわかる。
I never thought of myself as a racist–I never considered it a possibility, but the bottom line is that the words that were said in that chant were mean, hateful and racist. I will be deeply sorry and deeply ashamed of what I’ve done for the rest of my life. Some have wondered why I haven’t spoken out publicly. The truth is I’ve had a mix of pain, shame, sorrow and fear over the consequences of my actions.”


こういうやり方であれば、差別・人権侵害が起きたあと、謝罪することがたいへんよい社会的効果をもつ。差別・人権侵害は社会的に許されない悪として、正義として、社会的規範が構築・更新される

さらに米国には64年公民権法以降、強力な差別禁止法があり、その後も幾多の改正がなされている。
社会的な反差別規範が法律によって承認されているということ。そのなかで上のような謝罪は、規範の承認・更新・強化という意味合いを持つ。だから謝罪には社会的意味が生じることになる。

このような具体例はもっと日本で紹介されるべきなのだと思う。

日本型の謝罪とは、根本からいって不祥事対応である。①何が起きたのかもあいまいで、②なぜ謝るのかもわからないから、③謝ってもそれがどんな意味があるのかもわからず、④再発防止にもつながらない。
日本には一般に差別禁止法がほぼゼロと言ってよいので、社会的な反差別規範が法律によって承認されるほど強くもない。そういう状況で、謝罪は、社会的な反差別規範の形成に結びつくはずがない。つまり、

日本型の謝罪・不祥事処理にマジで意味がないのである。

このことは万人が気づいているだろう。だからこそ、逆張り的に、社会運動が差別や人権侵害を批判することを、揶揄したりする人々が出て来るのだろうと思う。
だが、私たちが求めているのは、100%その場しのぎで後々には何の役にも立たない日本型謝罪ではない。
戦後日本には存在しなかった、欧米型の人権規範の構築なのである。

長谷川豊が透析患者への差別について、米国型のような謝罪を行っていないことは言うまでもない。「再チャレンジ」など愚の骨頂である(「再チャレンジ」したいなら、庶民と同じく、ハローワークに通ってはいかがか)。

長谷川豊にはいまからでも透析患者への差別煽動に対して欧米型の謝罪を要求していく必要がある。
そしてそういうことが実行されない限り、かれに立候補する資格などあるはずがないのである。

前回の問題にもどれば、だからこそ常見氏のような角度での差別批判は、まとはずれであるだけでない。残念ながら日本では意味が全く無い(日本型社会規範を擁護するという意味以外は)。

時間がきたので、この辺で。

繰り返すが、この点は大変重要だ。
差別禁止法制がなく、社会的にも反差別規範が存在しない日本では、とりわけ欧米型の人権規範を構築する課題が重要なのである。



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by ryangyongsong | 2017-02-08 13:48