反レイシズム関連を中心に適宜更新します。


by ryangyongsong

「排外主義に陥らない現実主義の方へ――上野千鶴子さんの回答について」についての違和感

上野千鶴子の「平等に貧しくなろう」が多くの批判を浴びている。
移住連から公開質問状が出され、それへの上野による回答を受け、下記の再批判が移住連から出されている。
上野の議論の誤謬を的確に批判している。だが他方で違和感も覚えた。

II 「回答」に対する懸念
2.上野さんと「新しい人種主義」の近似性

の項である。

記事は上野の回答を「新しい人種主義」と極めて近いと批判している。言いたいことはわかります。

だが、上野の回答は、日本ではレイシズムそのものとして機能する、と言うべきだと思う。
なぜここにこだわるかというと、「新しい人種主義」という欧州的カテゴリを持ち出すことで、重要な問題が見落とされると思うからだ。実践上決して無視してはならない、欧州と日本の社会的文脈の違いがみえなくなるのではないか、と危惧する。

以下、記録も兼ねて問題点を指摘しておきたい。


 上野さんの回答を読んで、私たちが一番危機感を持ったのは、(現役の政治家ならマリーヌ・ル・ペンのような)欧州の極右が用いる新しい人種主義の論理ときわめて近いことでした(Balibar & Wallerstein 1990)。その論理に従えば、個々の文化的共同体は「差異への権利」を持つ、それを守るには国境を越えた文化の交雑を避けるべき、となります。フランスの極右は「多文化主義の真の擁護者」を自称していますが(Mudde 2007: 191)、それは移民を受け入れないのが相互にとって幸せという理屈によります。


この「新しい人種主義」はバリバールが述べているものであろう。
つまり1990年の、フランスを念頭においての議論である。

ということは、

1.1972年法という差別禁止法が成立して以後の話。更にいえば、SOSラシズムなどの反レイシズムムーブメントが社会的成功をおさめたあとの話
2.極右としての国民戦線がいちおうはNGとされる文脈があっての話

だからこそフランスでは極右は、「いや、自分は極右じゃありません。差別もしてません。ただフランスはフランス人のもの、と言いたいだけ」等という、自分はレイシストじゃない的な言い訳を使わなければならない。

そういう状況で、本質主義的なレイシズム(DNAだとか血だとか頭蓋骨だとか持ち出すタイプの)ではなく、「差異主義的」で文化主義的なレイシズムをどうするか、が問題になったのではなかったか。

要は、社会的圧力によって、差別禁止法と反極右世論をかいくぐってうまく差別する高等戦術を、フランスの極右も身に付けざるを得なかった、そういう時代の新しいレイシズムを問題にしている概念じゃないのか。その戦術とは、

A.移民政策論に偽装して差別を煽動(差別でなく政策論!)
B.宗教批判(ヴェールを学校に持ち込むムスリムはライシテ(政教分離)に反する)
C.反グローバリズム(フランス人のフランスを!EU反対!)

などなど。だから国民戦線党首マリーヌ・ルペン(子)は、ホロコースト否定を繰り返す父ジャン・マリ・ルペンを除名しているわけで。


だが、日本はまるで状況が違うのだ。上のフランスの状況と対比してみれば、

1.戦後ずっと差別禁止法ゼロ。SOSラシズムのような国民規模での反レイシズム運動が社会を変えた経験もゼロ
2.極右規制もゼロ。(というより右翼と極右の境目がどこなのか、誰もわからない国!)

なのである。

要は、欧州由来の「新しい人種主義」とは、反レイシズム規範がつくられた国でのレベルの高いレイシズムを批判する概念である。

だが、これだけではまだ、この概念をつかって上野を批判することに何の問題があるか、よくわからないかもしれない。
だから次の日仏の違いもおさえねばならない。

フランスは、

3.旧植民地出身者(アルジェリア)には独立後国籍選択権プラス国籍法が生地主義なので「移民」二世三世もフランス国籍
4.外国人政策、移民政策(統合)はいちおうは存在する(反差別政策とか、移民受け入れとか、難民政策とか)

だから「移民」二世・三世はフランス国籍者であり、かつ統合政策も存在は、する。そういう状況で、先の極右が「高等戦術」をつかって「フランス人のフランスを」とか「移民政策の見直しを」とか言うことで、差別は煽動される、そういう状況が問題となっている。

だからこそ「移民」という言葉が外国で生まれその後フランスにやってくる人を指すにもかかわらず、実社会ではフランス国籍の外国ルーツ二世・三世などを指す語として、フランス国籍者にもかかわらず「移民」として差別される、という事態がうまれるわけだ。

そういう状況を問題にするという文脈のなかで、「新しい人種主義」とか「差異主義的な人種主義」という概念がつくられている。

だが日本はこの状況とまるで違う。

3.旧植民地出身者(朝鮮)は1952年に国籍はく奪し、国籍法は血統主義。だから3世だろうと4世だろうと外国籍(帰化しない限り)
4.外国人政策、移民政策(統合)は存在しない。だから入管法制が外国人政策の代用物となっている。

ここからわかることは日本は入管法制がレイシズム法として機能するということだ。アパルトヘイト法制として入管法が機能するといってよい。


この主張は、たとえ「国内に在住している外国人に出ていけということを意味しません」と留保をつけたとしても、「出ていけ」という効果を持ってしまいます。移民が差別され周辺化するのは目に見えているから来させてはならないという言説は、日本で差別される外国人は帰国したほうがよい、という言説に容易に換骨奪胎されてしまうでしょう。というのも、「移民受け入れ」に反対する主張は、前述のように非現実的であるだけでなく、「移民・外国人=否定すべき存在」というメッセージとして機能するからです。


私もこの批判の結論には異論がない。
だが、上の日仏の違いをふまえれば、同じ移民受け入れ反対という言葉ひとつとっても、全く意味が違ってしまうことは明らかではないか。

フランスでは移民反対論は、移民政策=国境の壁問題として議論されている。にもかかわらず実際には、フランス国籍の3世4世らへの差別になる、煽動効果をもつことが問題となる。

対して、日本では移民反対論はまったく違う意味をもつ。そもそも移民など受け入れる政策が存在しない。公的な外国人政策・移民政策がなく、入管法がそれを代用している状況下で、移民反対ということは、ダイレクトにレイシズム煽動になるのではないか?

(この点については拙著で1952年体制という概念の問題として整理した)

グローバル化のなかで先進国内部で増大するレイシズム・極右現象。
そういう普遍的文脈という意味では、日仏もたしかに共通しているといえる。
だが日仏にはそれが、それぞれ特殊な形で現象している。

その特殊性に注意を払うことが実践上決定的である。なぜなら日本の特殊なレイシズム現象がなぜ・どのようにして現われるかを解き明かしてこそ、どうやったら状況を変えられるかがわかるからだ。

その苦しい作業を怠り、「抽象的普遍性」に逃げ込んだことこそ日本の知識人の「罪」だったのではないか。上野千鶴子を批判するならばその点に切りこまねばならないのではないか。



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by ryangyongsong | 2017-02-22 23:57